彩空観測記録

日々の記録や考察を少しずつ積み重ねていくブログです。

自分の言葉が誰かの焼き直しに見えてしまうとき

他人の言葉に救われること

Xを眺めていると、ときどき、自分の中にうっすらあった感覚を、誰かがきれいに言葉にしているのに出会うことがある。そういうポストを見つけると、少し気持ちよくなる。自分でも何かを考えていた気がするのに、それをわざわざ自分で言葉にしなくても、そこにすでに完成された形があるからだ。いいねやリポストを押す指は軽い。自分の中にあった曖昧なものが、他人の言葉によって輪郭を得る。そのこと自体は救いでもある。

けれど、最近はその軽さが少し気になっている。「ただ気持ちよく感じて終わってよいのだろうか」と。なぜなら、その軽さの分だけ、自分で言葉にするという手間をどこかに預けているような感覚もあるからだ。

もちろん、誰かの言葉に助けられること自体は悪いことではない。むしろ、人は他人の言葉によって初めて自分の感情や違和感を理解できることがある。自分の中に何かがあったことはわかるのに、それが何であるのか、自分ではまだはっきりと言えない。そういうときに他人の言葉が先にそれを指し示してくれると、人はほっとする。うまく言えなかったものに名前がつくからだ。

自分で言葉にすることを手放してしまう

ただ、そのことに慣れすぎると、他人の言葉に救われることと引き換えに、自分で言葉を持つことを手放していく。曖昧なままの感覚を抱えたまま、それを自分の頭の中で反芻し、何度も失敗しながらようやく言葉にしていく。その面倒で、不格好で、時間のかかる過程を省略し、誰かがすでに整えてくれた言葉に乗ってしまう。そうしているうちに、いざ自分で何かを書こうとしたとき、自分の言葉は最初から二級品のように見えてくる。

すでに誰かが、もっと速く、もっときれいに、もっと正確に表現してしまっている。そう感じると、自分が改めて書く意味がわからなくなる。似たことしか言えないのなら、わざわざ自分が言わなくてもよいのではないか。どうせ自分より上手い人がいるのなら、自分の文章は劣化版にすぎないのではないか。そういう感覚は、今ではかなり身近なものになってきた。

XのようなSNSでは、この感覚が加速する。そこでは、自分がまだうっすらとしか感じていなかったことが、他人によってすでに端的な文章になって流れてくる。しかも、それを書いているのは、自分よりもよく考え、自分よりもよく読み、自分よりも洗練された言葉を持つように見える人たちである。その言葉を見て、確かに私は気持ちよくなる。これが言いたかったのだ、と思うこともある。しかし同時に、その瞬間、自分が言うべきだったはずの言葉が、自分が抱えていた感覚が、自分の手元から少し離れていくようにも感じる。

ここで起きていることは、単なる比較による劣等感ではないと思う。もちろん、比較はある。自分よりうまい人を見て、自分の言葉が粗く見えることもある。だが、それだけではない。本当に問題なのは、他人が言語化してくれたものに快を感じる構造の中で、自分で言葉にするという過程そのものを外部化してしまっていることではないか。

言葉になる前の感覚というものは、だいたい曖昧で、不格好で、触れにくい。それを自分で引き受けるのは面倒だし、しばしば苦しい。自分でも何を考えているのかよくわからない時間に耐えなければならないし、いざ書いてみても、思っていたほどのものにはならない。それでも本来、言葉を持つということは、その曖昧さを自分で通ることを含んでいるはずだ。他人の言葉だけで済ませるということは、その苦しさから救われるかわりに、その過程からも離れてしまうということなのだと思う。

最上位の完成形に勝てなければ、書く価値はないのか

そのことは、SNSの外にも広がっている。たとえば私は、有機化学に興味がある完全な初学者向けに、総合的で体系的な有機化学のブログ記事を書いてみたいと思うことがある。自分が初学者としてつまずいたところ、わかりづらかったところ、教科書を読んでもうまく頭に入らなかったところを、自分なりに整理して書いてみたいと思う。

けれど、そう思ったところで、すぐに手が止まる。ウォーレンの有機化学をはじめとして、その分野にはすでに長年にわたって積み上げられた優れた教科書がある。何十年もその道で努力してきた先生方が書いた本があり、それらは当然、自分よりもはるかに豊かで、正確で、体系的だ。そう考えると、自分が何かを書くことは、最初から見劣りする試みに思えてくる。どうせ勝てない。そうであるなら、書く意味はないのではないか、と。

だが、ここには一つの前提が紛れ込んでいる。その前提とは、「価値のある文章とは、その分野における最上位の完成形に勝てる文章のこと」だ、というものだ。この前提の下では、私を含め多くの人は何も書けなくなるだろう。なぜなら、ほとんどの領域には既に自分より優れた人がいて、すでに自分よりよく書かれたものが存在するからだ。もし「最も優れていなければ書く価値がない」という尺度だけで文章を測るなら、大半の言葉は発せられる前に失格になる。

しかし、本当にそうなのだろうか。有機化学の教科書と、初学者が自分のつまずきを踏まえて書くブログ記事は、そもそも同じ役割を担っているのだろうか。教科書は教科書としての強さを持つ。体系性、網羅性、正確さ、歴史的蓄積、洗練された説明。それに対して、個人の文章には別の役割がありうる。たとえば、どこで初学者が躓くのかを知っていること。いまの自分の理解水準から、どの順番なら入っていけるかを示せること。教科書と読者のあいだに、小さな橋を架けられること。

このことは、有機化学に限らないのだと思う。文章や創作物に価値があるというのは、少なくとも二つの意味を持っている。一つは、作者がその作品を通じて何を経験し、どのような視点を得たかという意味での価値である。もう一つは、それに触れた人の心が動いたかどうかという意味での価値である。

まず前者について考えるなら、たとえ作品の材料が借り物であったとしても、それを心に秘め、創作や会話の中で使い、にじませ、何度も自分なりに触れていく中で、少しずつそれは自分の心に根付いていくのだと思う。物事の本質的な独自性というものは、たしかに非常に少ないのかもしれない。蒸気機関やコンピューターやAIのように、歴史に大きな変革を起こすものは、そう多くは生まれないだろう。多くの人間は、過去に誰かが作った概念や言葉や思想の上でしか考えられない。そういう意味では、完全に無から生まれる独自性というものは、ほとんど幻想に近いのかもしれない。

だが、それでもなお、人は影響を受けたものを自分なりに解釈し、自分なりに咀嚼し、自分なりに表現することができる。マクロに見れば、それは何らかの文脈に回収されるものかもしれない。どこかの思想の系譜の中に位置づけられるかもしれないし、誰かの焼き直しだと言われるかもしれない。だが、それでも当人が、「確かに影響は受けたが、これは私なりに解釈し、私なりに咀嚼し、私なりに表現したものだ」と言い切れるなら、それは一つの独自性ではないだろうか。

ここで言う独自性は、誰も考えたことのないことを思いつく能力ではない。他人に認定されるような称号でもない。むしろそれは、自分の中を通ったという感覚、自分で引き受けたという所有感に近いのだと思う。借り物であっても、それを借り物のまま並べるのではなく、自分の内部を通して言葉にしなおすこと。その過程を経たものに対して、人はようやく「これは自分のものだ」と言えるのではないか。

もしそうだとすれば、自分で言葉にすることの意味はかなりはっきりしてくる。書く意味は、誰も言っていないことを最初に言うことだけではない。むしろ、まだ借り物でしかない感覚や思想を、自分で引き受け、自分の中に根付かせるために書くのだとも言える。そう考えると、他人の言葉に救われることと、自分で言葉を持つことは、完全に対立しているわけではない。他人の言葉はきっかけになりうる。ただし、それだけで済ませてしまえば、その感覚はいつまでも自分の外に留まったままだ。そこから一歩進んで、自分でも不格好なまま言葉にしてみることではじめて、それは少しずつ自分のものになる。

そして、作品や文章の価値にはもう一つの側面がある。それは「触れた誰かの心が動いたかどうか」ということである。これは単純に「感動」と呼んでもよいのかもしれない。インターネット社会では、世の中に無数の作品があふれている。生成AIの登場によって、その傾向はさらに強くなっていくだろう。毎日大量の画像や文章や動画が生まれ、大抵のものはすぐに流れていく。

しかし、その中で、100いいねにも届かないような絵が、ほとんどフォロワーのいない人の何気ない写真が、何かしらのニュースに添えられたぽつんとしたコメントが、日常でも何でもないような人の短い言葉が、なぜか心に引っかかって離れないということは、きっと誰にでもあるのではないかと思う。そういうとき、その作品や言葉はすでに発した人の手を離れている。作者がそこまで意図していなかったとしても、別の文脈の中で、別の人の中で、思いがけない作用を起こしている。

ここに、創作物のもう一つの価値があるのだと思う。作品は、作者が思っている以上に小さなかたちで他者に触れることがある。しかも、その価値は必ずしも知名度や数字や完成度に比例しない。大きな評価を得ていないものでも、人の心に残ることがある。だとすれば、「最上位の完成形に勝てるかどうか」だけを価値基準にするのは、やはり狭すぎる。

それでも自分で言葉にする意味

ここまで考えてくると、自分の言葉が二級品に見えてしまう感覚そのものは、完全には消えないとしても、それに対する見方は少し変えられる気がする。他人の言葉が自分より洗練されていることはあるだろう。実際、そういうことはたくさんある。自分より深く考え、自分よりうまく書き、自分より豊かな語彙を持つ人は無数にいる。だからこそ、自分の言葉はしばしば遅く、粗く、頼りなく見える。

他人の言葉に救われること自体は悪いことではない。そうやって、自分の中にあった曖昧な感覚が輪郭を持つこともある。ただ、それだけで済ませていると、自分を通った言葉は育たない。未熟でも自分で言葉にすることには、借り物だった感覚や思想を少しずつ自分のものに変えていく意味がある。そして、そうして生まれた小さな言葉は、もしかすると作者の意図を超えて、思いがけず誰かの心にも触れるのかもしれない。

すでに誰かがうまく言ってしまった世界で、自分の言葉は書く前から価値を失って見えることがある。しかし、それでもなお、自分で言葉にする意味は残っている。誰も言っていないことを最初に言うためではなく、自分の中にあるものを自分で引き受けるために。そして、その引き受けられた言葉が、いつか思いがけないところで誰かに届くかもしれないからである。

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